僕を殺したのはだれ?
今日、僕は死んだ。ペットショップのおじさんが、ゲージで寝ていた僕をビニール袋にいれて、冷蔵庫にしまったんだ。とても寒くて、とても暗くて悲しかった。「死んだらゴミに出しておけ」最後に聞こえた声は、おじさんのそんな言葉だ。僕を殺したのは、おじさんなの?
ペットショップで販売される犬たちは、人間によってつくられる。「犬工場」と呼ばれるその場所で暮らす犬たちは、卵を採るため狭いゲージで生かされる鶏たちとよく似ている。ここの犬たちは、まだ機械の方が大切に扱われているだろうと思えるほど、粗末な扱いを受けている。ここの犬たちは、狭いゲージから一度も出されることがないまま、その生涯を終えるものが多い。そしてまた、そんなところで生まれた仔犬たちも、まるで卵か何かのように、品定めされる。その後「不良品」とみなされる仔犬以外は、箱にいれられ、オークションへと出荷されるのだ。その積み荷の様子も、工場製品の方がずっと大切に扱われているだろう。生まれてまもなく箱にいれられ出荷されたので命を落とす犬も多い。運よく生き延びた仔犬たちはペットショップに並べられる。そこでうまい具合に、飼い主がみつかっても幼く親兄弟から引き離された仔犬たちは心を病み、いわゆる「問題行動のある犬」といわれ、飼い主から捨てられ、公的機関に持ち込まれるケースも少なくない
大昔から人間と犬は、良きパートナーとして暮らしてきた。そのパートナーをあたりまえのように簡単に殺す。人間はいったいどうなってしまったのだろう。これは、犬を流通させることに関わっている人間だけではなく、ペットショップで動物を買う人間、そしてペットショップに並ぶ動物を「かわいい」と手放しで眺める人間、つまり全ての人間にあてはまることだ。あなたはペットショップで購入したその犬たちの親「犬工場の犬」のことを、想像したことがあるだろうか。仔犬たちは、いったいどのような流通によって、ペットショップにたどりついたのだろう。ペットショップには、いつも仔犬がそろっているのはなぜだろう。大きくなった犬は、どうなるのだろう。そんなことも想像が出来ないようでは、人間はもうダメになってしまったと言わざるを得ない。飼えなくなったから、噛むからと、公的機関に犬を持ち込む人間。その後、あなたのパートナーだった犬がどうなったかを想像したことがあるだろうか。最後のときまで、「僕はあなたを傷つけません」を意味する、前足を伸ばし、おしりを高くあげるカーミングシグナルをだすという。二酸化炭素ガスでは、簡単に死ぬことは出来ない。部屋の中にガスが充満するまで苦しみながら、だんだん死んでいく。そして自らの手を汚さず犬を殺す人間は、罪の意識さえも低い。
「ペットの殺処分をゼロに!」動物にさほど興味がない人も、最近よく耳にするフレーズではないだろうか。冒頭の冷蔵庫で死んでしまった「売れ残りの僕」に関しては、命の一つとしても数えられてはいない。失った命として数えられるのは、「公的機関に持ち込まれた犬の中で、健康だが期限内に譲渡先が決まらず殺処分された個体」のみなのだ。人間が掲げる「殺処分ゼロ」とは、なんと身勝手で恥ずかしい言葉なのだろう。この言葉の裏には、そもそも人間は自然の摂理を守ることが出来ない性質だということが、にじみ出ている。「犬は人間より道徳的には圧倒的にすぐれている」愛犬家である、東京大学の一ノ瀬教授の言葉だ。その理由として、おしゃっていることは、「環境破壊はせず、戦争はせず、過去に固執せず、静かに潔く死んでいく。間違いなく犬は人間より道徳的に高潔」ということだ。「殺処分」は人間によるペットに対する「死刑」。いったい誰が、人間にこのような権利をあたえたのだろうか。人間と動物の大きな違いの一つとして「自分の意志で行動をおこす」というものがある。しかしこの自分の意志でおこしている行動が、こんな下品なことでは、このような力はない方が良い。「僕」を殺したのは私たち人間。自らの手を汚さず、罪の意識が低く、想像力が欠如した、私たち人間が殺したのだ。
参考文献
動物愛護及び管理に関する法律
「愛玩動物飼養管理士テキスト」日本愛玩動物協会
「アエラ」犬オークションの現場 朝日新聞出版
「犬を殺すのは誰か ペット流通の闇」朝日新聞出版
「東大ハチ公物語 人と犬の関係」10MTVオピニオン